ロゴ

Officina(オッフィチーナ名称)
ATELIER KINOPIO(アトリエ・キノピオ)
住所:
長野県上伊那郡箕輪町大字福与444−2

Telaista(フレームビルダー)
安田マサテル(MASO)

展示車両・フレーム

MOCCLE

長野県南部、上伊那郡。天竜川の向こうに中央アルプスの山々を望む小さな丘にアトリエ・キノピオはある。この工房の主人は安田マサテル。今回に限って、自転車職人はイタリア人ではなく、れっきとした日本人だ。 しかし、この男の中にはイタリアが深く根付いていることを、自転車の好事家たちは皆よく知っている。

安田は、この地に定住して8年になるが出身は大阪で、大学も地元で通った。大阪芸術大学だ。 在学中に、オリジナルの自転車を作ることにした。人と同じものは作りたくなかった。そこで選んだのは、世界でも指折りの森林大国である日本らしさを活かした木製の自転車「モックル」だ。 その頃から、安田は自分の自転車を製品化して、自転車職人・アーティストとして立身する夢をずっと持ち続けている。

そんな彼が自転車作りを学ぶため、本場のイタリアに飛び込むことを決める。現地の言葉はわからない。そこで考えたのが、自慢の木製自転車を持ち込み、それでイタリア中の工房を旅してまわることだ。彼の狙いは当たった。「なんだかおもしろいやつがやってきたぞ」と、一風変わった木製自転車に乗ってやってきた安田を、イタリアの職人たちは好奇心と、そして温かさをもって受け入れてくれた。 MASO(マーゾ)のニックネームもこの頃にイタリア人がつけた。

 彼がイタリアで最初に見つけた居場所は、アルプスの山の中トレント。ここにはヨーロッパ最大の、麻薬中毒者のための厚生施設があり、彼らに社会復帰プログラムの一環として自転車作りを学ばせている。MASOはこの施設でボランティアとして働き始めた。この“サン・パトリニャーノ”実は単なる職業訓練学校ではなく、最新の生産設備を有するイタリアのハンドメイド自転車作りの一大拠点でもある。 ツール・ド・フランスを戦うようなビッグメーカーの自転車の製造もここでは請け負っている。
ここサン・パトリニャーノで施設の空き部屋をあてがわれ、入所者の若者たちと寝食を共にしながら、フレーム作りや、ペインターとしての仕事を学んだ。 

ほどなくしてMASOは、施設で知り合った、イタリアでも屈指の自転車職人のひとりであるティツィアーノ・ズッロの工房に呼ばれる。それは自転車というビジネスが大きく変わろうとしていた時期だ。ズッロは、最盛期には10人の職人と共にフレームを年間数千台生産するメーカーとして、トップカテゴリーの強豪プロチームにバイクを供給するサプライヤーだったが、かつてのように一人一人の顧客のために“手を真っ黒にして”フレームを作る小規模な自転車工房に立ち戻ることを決めていた。と言えば聞こえが良いが、その実は、時代に取り残されたズッロの工房は、年間のオーダーがわずか20台程度と、今にもつぶれそうな、しがないものに成り下がっていた。

借り物のベスパに乗って、最新の設備を誇るサン・パトリニャーノのあるトレントの山を下り、寂れたズッロの工房に転がり込んできたMASOは、師匠となるズッロをもう一度、世界の第一線に返り咲かせることを決意する。それから文字通り二人三脚で、工房の再生に取り組んだ。デザイナーとしてフレームのグラフィックやペイントをMASOが担当するようになり、日本はもちろん、世界中からオーダーが入るようになった。

イタリアは10年間、MASOの喜びも苦しみも全部受け止めた。 彼は2010年、息を吹き返したズッロの工房を離れて帰国することになる。

日本に戻り、既述の上伊那郡箕輪町に移り住む。りんごやぶどうの果樹園、日本アルプスの山並みや、なだらか丘の傾斜。この土地の風景や空気感が、イタリアの田舎町にとても似ていたことで、直感的に移住を決意したという。ここに、念願だった自分の工房も作った。 

“アトリエ・キノピオ”

しかしこの名前は、自転車乗りの間ではもっぱら、卓越したカスタマイズ塗装を行うペイント工房として知られている。師匠ズッロの自転車も、日本を含むアジアマーケット向けはMASOがディストリビューターを務め、イタリアから入荷したフレームをこの工房で美しいペイントを施してから顧客の元へ送り出している。

そしてMASOはいま、木製バイク“モックル”の本格的な生産にいよいよ動き出した。

随分長いまわり道をしたが、その間に出会った妻とは、二人の子供に恵まれた。工房では弟子がひとり、MASOの作業を支えている。モックルは単なる木製から、カーボンシートを挟み込んで乗り心地を改善するなど、進化もしている。
 昨年はカリフォルニア州サクラメントで行われたNAHBS(北米ハンドメイドバイシクルショー)にも挑んだ。かつて、師匠ズッロと工房の再生を目指して二人で参加した、この分野で最も重要なイベントに、今度は自分のブランドと、自転車をもって出展したのだ。 ひとつの賞も受賞することは無かったが、そんなことはどうでもいい。ショーの最終日、MASOの木製自転車をいたく気に入り、その場で即決して買って帰った来場者の女性がモックルのお客さん第一号になったことが、彼にとって何よりの勲章だ。

木製自転車モックルは、イタリア、そして日本で自転車作りに身をささげて生きてきたMASOのこれまでの例に違わず、ただ喜びだけを彼に届けてくれるわけじゃない。製作にはとにかく手間がかかる。そして一番の問題は、ハンドメイドの少量生産ゆえ、コストを縮小するのが難しいことだ。 そのため、お洒落な空間にオブジェとして置いておくのが似合いそうなこの美しい木の自転車は価格もそれなりで、日常に使う乗り物として手に入れるには、そう簡単には手が出ない。
また、同じ自転車でも、これまでMASOが携わってきたイタリア製ロードバイクとは毛色が違うモックルを、スポーツ自転車専門店はその扱いに手をあぐねるだろうから、彼がこれまで世話になった取引先も今回はあまりあてにならない。
悩みは他にもある。最近引退を考えている師匠のズッロが、MASOがイタリアに戻り、工房の後を継ぐことを望んでいる、という話も伝え聞いている。

彼のまわり道はこれからもまだ続くかもしれない。でも、それでもいい。

自転車は、ペダルを踏むことを止めない限りは、ずっと前に進んでくれる。
安田マサテルの人生そのものが、モックルという自転車に乗った旅なのだ。