Officina(オッフィチーナ名称)
SANTILLO CICLI(サンティッロ・チクリ)
住所:
神奈川県鎌倉市常盤42−1

Telaista(フレームビルダー)
Disegnatore(デザイナー)

FRANCESCO SANTILLO(フランチェスコ・サンティッロ)

展示車両・フレーム

SANTILLO RB-01

男子たるもの総じて、車輪がついた乗り物を愛でる質(たち)にある。幼い時から2輪でも4輪でも、風を切るように速く、遠くへ連れて行ってくれる乗り物に憧れ、美を見い出す。イタリア語では車(アウトモービレ)、オートバイ(モトチクレッタ)、自転車(ビチクレッタ)と、全て女性名詞であり、これらの乗り物はしばしば男子にとっての魅力的な女性のように形容される。
 サンティッロ・フランチェスコ、彼の肩書きは「デザイナー」過去にマゼラーティやピアッジョ(ベスパ)と言ったイタリア屈指の2輪・4輪車のデザインを手がけた彼が、今は日本の鎌倉でロードバイクブランドSANTILLO CICLI(サンティッロ・チクリ)をやっている。そんなサンティッロのプロフィールを少し探ってみよう。

サンティッロ・フランチェスコが幼少期を過ごしたのは、南イタリアのサレルノ県にある小さな港町。ここは、今でこそリゾート地としていくぶん発展はしたが、当時はティレニア海の蒼く美しい海以外にはこれといって何の取り得もない、貧しい町だ。
この町の海沿いの道で、5歳の少年サンティッロは、運命の女神に遭遇する。名前はマゼラーティ・ボーラ。それはイタリアの高級自動車メーカー、マゼラーティがライバル社のランボルギーニ・ミウラに対抗して世に出した、同社初のスーパーカーだ。
この美しい車にすっかり心を奪われた幼いサンティッロは、カーデザイナーという職業に憧れを抱く。いつの日か、カーデザイナーになり、自らがデザインし、サンティッロの名を冠したその車を運転して走るという彼の夢はここから始まった。

 高校は電子と機械工学が学べる、家からずいぶん離れた地にある工業高校に通った。これは何も、子供4人を抱え、裕福ではないサンティッロの家庭に限らず、北部に重工業地域が発展しているイタリアにおける南北間の深刻な経済格差や、貧困に苦しむ南部の状況を慮(おもんぱか)れば、ごく当たり前の選択だ。だが、少年は両親にお小遣いをもらっては、自動車雑誌を買いに走り、デザインの勉強に没頭する。 その熱中ぶりは学校の先生たちもあきれるほどで「デザインでは飯は食えない。もっと安定した収入を得る仕事を選びなさい」と言う彼らの助言にも耳を貸そうとせず、車をデザインしては、それを雑誌が主催するデザインコンテストに送る日々を過ごした。
 最終学年でクラスメートが就職活動に取り組む中、トリノにあるデザイン専門の名門大学IAADの受験を志願する。試験まで1か月という限られた時間の中、全身全霊で製作したデザイン画と共に面接に挑むサンティッロ。「これまでどこでデザインを勉強してきたのか?」と尋ねる面接官に、南部の片田舎から受験に来た若い少年が「独学で学びました」と答えた後、面接は終わった。
 数日後には、サンティッロ家に合格の連絡が届く。しかし学費や生活費がとても高いことが問題だった。フランチェスコの下にまだ3人の弟がいる両親にはとても大きな額であり、長男を大学に通うことが不可能なことは、フランチェスコにもすぐにわかった。

電話の受話器を手に取った父が、大学に入試の断りの連絡を入れるのかと思いきや、その相手はトリノに住む親せきのところで「学費はすぐに用意できないが何とかする。どうか大学に通う息子を下宿させて欲しい」と頼んでくれたのだ。

この時に喜びで涙した記憶と、支援してくれた両親への感謝の思いを胸にトリノへ旅立ち、大学でも一意専心でデザインの勉強に励むサンティッロ。 イタリアの自動車産業の拠点トリノにあるIAADは、一大メーカーのフィアットはもちろん、ピニンファリーナのような有名カロッツェリア(デザイン工房)の第一線で活躍する者たちが通うアカデミーだ。そのため授業は主に夜間に開かれる。同世代の大勢が仲間とパーティに出かけたりして大学生活を享受する中、フランチェスコに限ってはIAADの仲間との交流が楽しく、ガールフレンドを作ることもなく、デザインの勉強に明け暮れた。
 彼の努力が報われる成果はほどなくして訪れる。大学を首席で卒業しただけでなく、あのイタリアデザイン界の巨匠、ジョルジェット・ジウジアーロのデザイン会社から、まだ卒業前という極めて異例な形で採用のオファーを受けていた。
ジウジアーロ、そう、あの“女神”マセラティ・ボーラを創造した、南イタリアの田舎から来た若者にとっては神のような存在の天才デザイナーだ。
 カーデザインを専門に行うジウジアーロの本陣とも言うべき“イタルデザイン”ではなく、工業デザイン全般を扱う関連会社ではあったものの、ここでの実績と才能が認められ、彼はほどなくしてジウジアーロ本人から、イタルデザインに来るようにお呼びがかかる。
こうしてサンティッロはわずか24歳にして、イタルデザインのわずか十数名しかいない、選ばれしデザイナー集団の一人というポストを手に入れる。

5歳の時に出会い、デザイナーを志すきっかけになった憧れの“女神”マゼラーティ・ボーラ。そのメーカーの車を、ジウジアーロという同じデザイナーの元でやる。フランチェスコはこのデザインスタジオで、現代まで名車として知られるマゼラーティ3200GTをデザインし、念願を果たすという最高の経験を得た。

イタルデザインを退所した後、サンティッロはイタリアの大手2輪車メーカー(ピアッジョ)や、メルセデスベンツのデザインセンターで働いた。その後もトヨタ自動車本社に呼ばれたことをきっかけに来日。続いてホンダに籍を置くなどしている。

常に新しい取り組みに挑むのが好きな男なのだろうか、とにかく移籍が多い。これまで日欧の名だたる企業でのデザイナーという、他の同業者が羨みそうなポストを手に入れてきたにもかかわらず、である。
現在は鎌倉市に自らのデザイン事務所を開業した。日本人の妻との間に子供にも恵まれ、家族と共に暮らし、そこでカフェも経営している。

そのサンティッロが次に選んだチャレンジが、ロードバイクのデザイン革命。 そのためにまだ日も浅い昨年12月に、自身の名を冠したオリジナルブランド “Santillo Cicli”を興し、第一弾SANTILLO RB-01をリリースした。鎌倉のカフェは同ブランドのショールームを兼ねている。

まずは、このバイクの横から眺めてみる。

フォークブレード先端から、トップチューブ、シートステイのリアエンドまで絶え間なく続くエルゴノミックなラインがフレームデザイン全体のプロファイルを構成している。 これは、獲物を狙うチーターが、引き締まった四肢で躍動的に大地を駆ける姿をモチーフにしていると言う。それゆえ、このバイクの前面ヘッドチューブのエンブレムには、サンティッロにゆかりのあるマゼラーティのアイコンでもあるトリデンテ(三つまたの鉾)と共に、チーターの顔があしらわれている理由だ。SANTILLO RB-01はこれまでに見たことのない、実に個性的なデザインで、まるでモーターショー会場で、ターンテーブルの上で綺羅やかにスポットライトを浴びるコンセプトカーのように未来を感じさせてくれる。
 一般的にロードバイクのフレームはUCI(国際自転車競技連盟)が定める様々な寸法や、位置などの規定に則って設計される。言ってみれば、世界に幾多とあるメーカーの製品も、このUCI規定に準じていれば、どれでもさほど変わりばえのしない“自転車然”としたものになってしまう。 この規定を無視して作られた、個性的なデザインをした自転車も存在はしているものの、これらは、正式な自転車競技の機材としては認められていない。
 一方でSANTILLO RB-01はこのUCI規定をクリアしている。つまり、このバイクがツール・ド・フランスを走ることだって夢じゃない。

「規定により制限された枠の中で、自転車に真の“デザイン”をもたらし、革命を起こす」

これが、デザイナー、フランチェスコ・サンティッロが自らに課した挑戦だ。
 一般的に、デザイナーとエンジニアの共同作業、時には双方のエゴのぶつかり合い、折り合いによって成立している自動車の製作プロジェクトと異なり、自転車、特に競技機材たるロードバイクにおいてはエンジニアありきで、デザイナーが介入する余地はそこに存在しないに等しい。ロードバイクにおけるデザインとはすなわち、ペイントやそのグラフィックを意味するに過ぎないのだ。
 マスプロダクションが支配するビジネスモデルで、その悪しき結果ゆえに行き詰まり感をぬぐえずにこれまで来ている自転車業界において、自転車職人によるハンドメイドバイクに再びスポットが当たるなど、変化が望まれるマーケットに、デザインという観点から一石を投じようとするサンティッロ・フランチェスコの試みにこれから注目したい。

なお、SANTILLO RB-01はモノコック製法のカーボンで、パートナーシップを結んだ台湾の有力メーカーが生産している。